ジオパーク秩父案内⑪「過去の水害の歴史から学ぶ/寛保洪水位摩崖標」
◆秩父市は周囲を山で囲まれた盆地です。本流の荒川は多くの支流を集めながら秩父盆地を北に向かって流れます。そして長瀞を過ぎ、樋口(ひぐち)でほぼ直角に東へ曲がります。そこから関東平野に出ると、今度は南東に流れを変え、東京湾へと注ぎ込みます。この樋口が文字通り秩父盆地の樋(とい・水を流す細い管)であり、河川のただ一つの出口なのです。下記の地図を見るとおわかりのように、樋口は両岸から山が迫り、ボトルネック状の地形となっています。そのため昔は水害がたびたび起こりました。なかでも江戸時代、歴史に残る大洪水がありました。
◆寛保(かんぽ)2年(1742年)、秩父地方に6日間も豪雨が降り続きました。荒川は濁流となり出口を求めて北進しました。長瀞の先にある樋口に至ると荒川は狭い谷間で東へと流れを変えます。そのため、濁流は急激に水かさを増し、なんと水位が六十尺(約19.8m・6階建てビルに相当)もの大洪水となってすべての人や家屋、田畑を押し流しました。
◆この大雨により荒川ばかりでなく利根川も氾濫し、関東一円が浸水しました。記録では江戸の亀戸で3.7m、浅草で2.1mも水位が上昇したそうです。これにより荒川氾濫地域だけで死者約九千人、江戸でも約四千人もの死者がでる大水害となりました。

◆長瀞第二小学校の裏手の崖には、この時の最高水位を示す位置に「水」の文字が刻まれています。これは、当時の人が後世に「ここまで水があふれることがあるぞ、気を付けよ」という戒めを残してくれたものなのです。現代では荒川などの上流にいくつものダムが造られ、ほぼ洪水が起こる危険はなくなりました。
◆しかし、昨今の異常な天候で国内外で思いもよらないほどの大雨が降り、大規模な洪水が起こっています。先人たちの残してくれた戒めをもう一度振り返り、防災の意識を高めなくてはならないと思います。






【古文書に見る寛保大洪水の記録】
◆入間郡久下戸村(現・川越市)名主・五平次による「大水記」より※一部抜粋・現代語訳
「三十人、五十人と死体が連なって流れてくる。子供を抱いた人や馬が、昼も夜もなく
ひっきりなしに流れてくる。(村には)屋根の上に助けを待つ人がおり、小舟を出して
村中を回り、被災者を大きな家や寺に避難させた」
◆石原村(現・熊谷市石原)「松崎家文書」より※一部抜粋・現代語訳
「7月27日より豪雨が6日6晩降り続き、荒川通りは古今まれなる大出水で、(石原村の)水
押(浸水)153町歩(約153万平方メートル・甲子園球場約40個分)、土地乱入(土砂被害)67町歩(約67万平方メートル・東京ドーム15個分)・・・」



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