裏話⑦に続いて、もう一つ開催日についてのエピソードをお話しします。
1969年(昭和44年)、西武鉄道が吾野から秩父まで延伸されました。これにより秩父と東京は直通で結ばれることとなりました。そのため20万人もの夜祭観光客が訪れるというかつてない混乱状態が起こりました。そこで、それまで午後10時半から開始していた花火の打ち上げを、帰宅のための終電車時刻に間に合うよう午後8時開始に変更しました。これにより、現在見られるような曳行される屋台のバックに花火が上がるというダイナミックな映像美が生まれたのです。
また、1977年(昭和57年)には屋台曳行の順路を、それまでの秩父神社一の鳥居からまっすぐ南に伸びる「番場(ばんば)通り※写真左」から、現在の大通り「本町(もとまち)通り※写真右」に変更しました。これは、狭い番場通りを曳行することによって発生する事故から観光客を守りたいという市や警察の思いと、屋台6町の人々の思いが一致したからです。
このように、秩父の人々は、状況によっては柔軟に開催方法の変更を受け入れていったのです。
しかし、開催日についてだけは譲りませんでした。2004年(平成16年)新聞に突然「市と観光協会が夜祭開催日検討委員会を設置する」という記事が載りました。これは、大きな収入源である夜祭を週末に行うことで、曜日ごとに変動がある観光客数を恒常的に均一化したいという意図があったからです。驚いた神社や屋台町、花火町の人々は説明を求めました。話し合いの場で、最終的には神社宮司から「夜祭は神事と切り離せない。開催日は変更できない」との意見が出され、委員会は解散となりました。後に神社宮司は次のように述べたと言われています。
「祭事歴を大事にし、生活リズムを守っていくことが ”秩父らしさ” である」
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